メサイアについて

☆「メサイア」とは?

 「メサイア」はヘブライ語の「メシア」を英語で読んだもので、メシアとは「油を注がれたる者」→「神から選ばれた支配者、悩めたる者の解放者」を意味することから、邦訳では「救世主」とも呼び、この曲では、イエス=キリストのことを指します。

☆「ハレルヤ」とは?

 「ハレルヤ」は、ヘブライ語でハ―ラル(賛美する)の二人称複数命令形の「ハラルー」と、神の名「ヤー(主)」とからなり、「あなた方は主を褒め讃えよ」という意味で、歓喜と感謝に満ちた主(神)を褒め讃える言葉であり、叫ぶように言う世界共通語です。

☆「ハレルヤ」コーラスの際に観客が立ち上がるのは何故か?

 ロンドン初演(1743年)の際に、あまりの素晴らしさから、国王ジョージ2世をはじめとする観客が思わず立ち上がったことが始まりで、現在でも「ハレルヤ」コーラスの演奏時に観客が立ち上がる習慣があります。金沢のメサイア公演では、お客様も立上り一緒に歌って頂いて結構です。楽しいですよ(*^_^*)

☆「メサイア」には、どのような曲目があるのか?

 「メサイア」は三部構成になっています。第一部は預言、キリストの降誕、第二部は受難から昇天への物語で、第二部のフィナーレが「ハレルヤ」コーラスであり、主の復活に「ハレルヤ」と賛美する曲です。第三部は復活と永生の物語で、最後は壮大なアーメンコーラスで締めくくられます。

☆「メサイア」の演奏時間はどれくらいかかるか?

 指揮者によって違いますが、通常は約2時間半(各部60分、60分、30分)です。ヘンデル本人による自筆楽譜は259ページにわたりますが、ヘンデルはこの大曲の楽譜を1741年8月22日から9月14日までのわずか24日間で書き上げたと伝えられています。

☆「メサイア」演奏はどれくらいの人数で行われるのか?

 演奏会によって演奏人数は異なりますが、合唱200人(+オーケストラ等100人)規模の演奏会が多いようです。金沢での「メサイア」はOEKメンバーの人数(約40人)編成に基づき設計された石川県立音楽堂コンサートホールに合わせて、合唱80~120人での演奏会が行われています。

☆「メサイア」のあらすじ

 メサイアが分類されているオラトリオという曲種は、舞台装置、衣装、所作がないオペラともいえるもので、ヘンデルのものでもメサイア以外は“音楽劇”として筋書きの理解が比較的容易です。ところが「メサイア」は救世主(メサイア)イエス・キリストを主人公としてその生涯を描いた“音楽劇”とは言えないのが難しいところです。

 「メサイア」は3部構成になっていますが、第1部が「救世主生誕の予言と、降誕」、第2部が「受難と贖罪そして復活」、第3部が「永遠の生命」とイエス・キリストの生涯の中で三つの大きな出来事だけを取り上げています。第3部は生涯の出来事というよりは後世の人の信仰というべきかも知れません。

 この構成はミサ曲とも多くの共通点を持っているとも言われています。また、キリストの生涯といえば聖書のなかでは新約聖書がキリストの事跡を伝えているわけですが、メサイアの台本を作ったジェネンズはすべてを新約聖書からはとらず、旧約聖書のなかで預言者が語っていた言葉も数多く取り入れているのが特徴です。

☆序文

 いざ、大いなることを歌おう。

 たしかに信仰の神秘は偉大です。神は肉体としてこの世に現われ、聖霊によって義とされ、天使たちに見守られ、諸国民の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、そして栄光のうちに天井へと召されました。この神の中に、知恵と知識の財宝が秘められています。

 この文言は、《メサイア》がダブリンで初演された際のプログラムの表紙に載り、その後もヘンデルの演奏会では必ずプログラムに乗せられていたといわれています。この言葉も聖書からの引用ですが、この3行ほどの言葉の中に《メサイア》全曲の歌おうとすることが集約されているといわれています。

1.第1部「救世主生誕の予言と、降誕」

(1) 序曲

(2) メシア到来の準備(第2曲~第4曲)

 「救世主が現れ、戦争状態にあったエルサレムが赦され、その民が慰められる」という預言がテノールのアコンパニアート(第2曲)で歌われ、続くアリア(第3曲)で、「救世主が現れるのだから、荒地は道になれ、すなわち、自然界すら栄光の前にはひれ伏しなさい。」と歌われます。

 これを受けて第4曲の合唱が「このようにして、主の栄光が現され、皆が共にこれを見るであろう。主の口が語られたとおりに。」と結びます。

(3) 預言(第5曲~第7曲)

 バスのアコンパニアート(第5曲)が、神(=万軍の主)の言葉として、「天地やすべての国を揺り動かそう。するとメシアがやってくる、あなた方が尋ねもとめている主と、待ち望んでいる契約の使者が突然神殿にくるであろう。」と伝えます。

 続くアルトのアリア(第6曲)は、「メシアは、精錬の炎のように、すべてを焼き尽くし、清めてしまう」という内容を歌い、第7曲の合唱が「この方は、レビの子達を精錬して清めるであろう。そして清められたものだけが義にかなった捧げものをできる。」という内容を歌います。

 こうして、キリストが生まれるにふさわしい土壌が整備されます。

(4) 受胎の知らせ(第8曲)

 いわゆる受胎告知とメシアの到来までを喜ぶ部分です。受胎告知は、古来、数々の名画の題材にもなっているのでご覧になったかとも多いと思います。

 アルトのレチタティーヴォが「乙女が身ごもって男の子を産み、『エマヌエル』と名づけるであろう。」と歌い、続くアルトのアリア(第8曲前半)と合唱(第8曲後半)が「シオンによい知らせを知らせる者よ、高い山に登れ、……」とマリアの受胎の喜びがエルサレムにもたらされる喜びを歌います。

(5) 闇の中の光(第9曲、第10曲)

 ここで一気に喜びが実現されるのではなく、バスのアコンパニアート(第9曲)とアリア(第10曲)で主の栄光が現れる前の闇を描き、そこに光がさすというお膳立てをして、次のイエスの誕生の喜びをさらに際立たせます。

(6) 聖誕(第11曲)

 イエスが生まれた喜びを、合唱が「それは、一人のみどり子が、私達のために生まれたからである。私達は一人の男の子を賜わった。治世はその子の肩に委ねられ、園子の名は『すばらしい方、助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれるだろうと歌います。

(7) 田園曲(第12曲)

 イエスが生まれた牧野を思い浮かべさせるようなのどかな6/8拍子の器楽曲が、しばし流れます。

(8) 降誕の知らせ(第13曲~第17曲)

 野原で羊の番をしている羊飼いのもとへ、天使がイエスの誕生を告げる場面です。これも古来数多くの名画を残している場面です。ソプラノが第13曲と第14曲のアコンパニアートとそれを導くレチタティーヴォで、驚く羊飼いたちの様子、天使たちが「恐れることはない、今ダビデの町で救い主がお生まれになったのです。」と告げる様子を歌い、最後に「天使と共に多くの天の軍勢が現れて神を賛美していった」と次の合唱を導きます。

 第15曲の合唱曲がその天の軍勢の声ですが、内容は「いと高きところでは、神に栄光がありますように。地には平和がありますように。人々には善意が宿りますように。」で、これはミサ通常文のグローリアの冒頭の歌詞、“Gloria in excelsis Deo, et in terra pax hominibus bonae voluntatis”と同じ歌詞です。

(9) イエス到来の喜び(第16曲)

 救世主を得たエルサレム(シオン)の人々の喜びをソプラノソロが喜ばしく歌います。

(10) 主の栄光(第17曲~第21曲)

 イエスの生涯を語っている福音書ではかなり長い部分が割かれているイエスの事跡(あるいは奇跡)をごく簡単に語ってしまいます。

 まず導入のソプラノのレチタティーヴォでは「盲人、聾唖者等の身体障害者も直ぐに直るであろう」という内容を歌い、第17曲のアルト・ソプラノのアリアでは救世主が「羊飼いが羊を飼うように人類を慈しむであろう、疲れた人、重荷を負っている人はすべてこの方の下にきなさい。‥‥」と歌います。引き続いて第18曲の合唱が、「なぜなら、この方のくびきは負いやすく、その荷は軽いのだから。」と、救い主が我々に負わせる荷は軽いのだから救い主の下に集まろういう内容を歌います。(くびき軛:牛車のながえ轅(牛に牽かせる棒)につける横木。これを牛の首にかけて車を牽かせる)

2.第2部「受難と贖罪そして復活」

(1) 人々の裏切り(第19曲~第20曲)

 場面は一転して、早くも受難へ移ります。

 第19曲の合唱では、十字架を担いでゴルゴタの丘を登るイエスの足取りを思わせる重々しいリズムに乗って「見よ、世の罪を取り除く神の子羊を。」と歌い、神の子イエスが人類の代わりに受難することを預言するかのようです。

 第20曲のアルトのアリアでは、イエスが人々に受け入れられず、侮られ、のけ者にされ、はずかしめられ、それでも顔を隠すことなく受け入れていた様を歌います。

(2) 贖罪による救済(第21曲~第26曲)

 救世主が病や苦しみをひとえに負うことによって人類が救われることを3曲続く合唱曲で歌います。

 「まことにこの方は私たちの病を負い、私たちの悲しみを担ってくださった。彼は私たちの罪のために傷つけられ、私たちの不義のために砕かれたのだ。彼はご自身でこの懲らしめを受けることにより、私たちに平安をもたらして下さったのだ。」(第21曲)

 「彼が打たれたその傷によって、私たちは癒されたのだ。」(第22曲)

 「私たちはみな羊のようにさまよって、それぞれの勝手な道へ散って言ってしまった。それなのに主は、私たちすべてのこの罪を、彼ひとりに負わせたのだ。」(第23曲)

(3) あざけり(第24曲~第25曲)≒受難

 まずテノールがアコンパニアート(第24曲)で、イエスをあざ笑う民衆の様を歌います。

 続く第25曲の合唱がその民衆があざ笑う言葉で、「彼は神を信じているのだ。それなら神が助ければいい。本当に神のお気に入りなら、神は助けてくれるはずではないか。」という現実的な奇跡を示せという内容です。おなじような民衆の声はマタイ受難曲などでも歌われています。当時の民衆の神の捉え方はそういうものだったのでしょうか。

(4) 絶望と処刑(第26曲~第28曲)

 ここで十字架上でイエスが死にますが、直接的に「死ぬ」という言葉は直接には出てきません。

 第26曲でテノールが、皆にそしられ、慰めてくれるものを誰一人見つけられなかったために望みを失ったこと、第27曲のアリオーソでテノールが「…この方が味わったような苦しみが、また世にあるだろうか。」と歌います。

 そして、とうとう第28曲のテノールのアコンパニアートで「この方は、あなたの民の罪のために打たれ、命あるものの地から断ち切られたのだ。」と死を意味する言葉が歌われます。

(5) 復活と福音のひろがり(第29曲~第37曲)

 第29曲で、テノールがアリアで神がその一人子を見捨てなかったことを歌い、第30曲では、一度冥府に落ちたイエスの魂が復活するための城門を開けるための合唱が歌われます。即ち、その歌詞は、

 「門よ、こうべを上げよ。開け、とこしえの扉よ。栄光の王が入られる。」

 「その栄光の王とは誰か?」

 「強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。」

 「万軍の主、彼こそ栄光の王である。」

となっています。この曲はメサイア全曲中でただ1曲、ソプラノが2部に分かれる曲です。

 続くテノールのレチタティーヴォではイエスのみが神の子であることを、第31曲の合唱では「神の御使いたちみなに、彼を崇めさせよう。」とイエスの尊さを強調します。また、ここで復活したイエスが天に昇ります。

 第32曲のアルトのアリアは分かりにくい歌詞ですが、イエスの教えをユダヤ世界だけではなく、世界のすべての人に、反対する者の中にも宣べ伝えようという強い意志の表れといわれています。ただ、このアリアの解釈はメサイアのなかでも最も難しい箇所といわれています。

 これを受けて第33曲の合唱が「主が命じられると、福音を伝えるものは、大きな群れとなった。」と福音が伝えられ人々が喜ぶ様が表現されています。

(6) 平和の福音(第34曲~第35曲

 この部分は我々が使っている楽譜では2種類の曲が記載されています。

 第34曲の2重唱またはソプラノアリアでは、福音が伝えられていく様が美しいメロディーで歌われます。

 続く第35曲はテノールのアリオーソまたは合唱ですが、「彼らの声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及んだ。」と福音、伝道が世界のすみずみまで行きわたることを歌います。

(7) 地上の王たちの反乱(第36曲~第37曲)

 ここで抵抗勢力が登場します。第36曲で、イエスの教えた新興宗教の台頭を防ごうと、弾圧する王たちの姿をバスのアリが歌います。

 第37曲の合唱は、同じく抵抗勢力の王たちが「彼らの枷(かせ)を打ち砕き、彼らの軛(くびき)を解き捨てよう。」と口々に叫ぶ様を歌います。

(8) 天上のあざわらい(第38曲)

 地上の王たちのむなしい抵抗を天の神々があざ笑う部分です。

 テノールのレチタティーヴォの導入に続いて、第38曲のテノールアリアが「…鉄の杖で、陶器を打ち砕くように地上の神々は打ち砕かれるであろう。」と歌います。

(9) 全能の王の賛美【ハレルヤ】(第39曲)

 抵抗勢力を打ち砕いて、主の栄光の国が訪れたことを賛美する有名な合唱です。「ハレルヤ! われらの主、全能の神は支配者となられた。この世の国は、われらの主とそのキリストの王国となった。主は世々限りなく君臨される。王の中の王、主の中の主。ハレルヤ!」

3.第3部「永遠の生命」

(1) 復活への信仰(第40曲~第41曲)

 第40曲のソプラノアリは、キリスト教信仰の根幹をなす「復活」への信仰を、「われらは知る。われを購い給う主は、ついには地に立たんことを…」と歌います。

 続く第41曲の合唱も、「死が一人の人を通して来たのと同じように、死者の復活もまた、ひとりの人によって来たのだ。アダムのゆえにすべての人が死ぬのと同じように、キリストによってすべての人が生かされるのだ。」と信仰の真髄を歌います。

(2) 永遠の生命(第42曲~第43曲)

 ここは2曲ともバスの見せ場です。

 まず第42曲のアコンパニアートで、最後のラッパが鳴り響く時、我らは瞬時に変えられる。」と語り、続いてトランペットソロとの掛け合いのアリア(第43曲)が歌われます。その歌詞は「最後のラッパが鳴るとき、死者は朽ちざるものへと甦り、…」という永遠の生命への変容を高らかに歌い上げます。

(3) 死に対しての勝利(第44曲~第46曲)

 アルトのレチタティーヴォが「『死は勝利に呑まれてしまった。』という聖書の言葉が成就された。」と導入し、第44曲では唯一の2重唱(アルト&テノール)が「死よ、お前のとげはどこにあるのか、おお墓よ、お前の勝利はどこにあるのか。」と死の敗北を再度歌います。

 それに続いて、第45曲の合唱が、対句表現のように「その一方で、神に感謝すべきことに、神は私たちに主イエス・キリストを通じて、私たちに勝利を賜ったのである。」と歌い、勝利の締めくくりとして第46曲のソプラノアリアが、「神が私たちの見方であるなら、誰が私たちに敵対できようか?‥‥‥キリストが甦って、いまや神の右に座り、私たちのためにとりなしをして下さるというのに。」と神の信任を得た信徒たちの自信に満ちた声を歌います。

(4) 屠られた子羊(=イエス)に対する賛歌、アーメン(第47曲)

 何曲かに分割した版もありますが、我々の使っている楽譜では長大な終曲となっています。人間の原罪を負って受難し、人間を救ったイエスを讃える賛歌です。

 「屠られた子羊、自身の血によって私たちを神に贖って下さった子羊こそが、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい。

 御座にいます方と子羊とに、賛美とほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくありますように。アーメン。」

※本文は「アンサンブル・ヴォーチェ」さまのHPより抜粋・引用させて頂きました

http://www.prmvr.otsu.shiga.jp/ensemblevoce/index.html

☆「メサイア」対訳表

☆「ヘンデル」について

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルGeorg Friedrich Händel, 1685年2月23日 - 1759年4月14日)は、ドイツ生まれでイギリスに帰化した作曲家。バロック期を代表する重要な作曲家の一人。彼は生涯の約3分の2をイギリスで過ごしており、イギリスでの活動歴が圧倒的に長いことから、英語名でジョージ・フリデリック・ハンデル(ハンドル、ヘンドル、George Frideric Handel)と呼び、イギリスの作曲家として扱うべきとする意見もある(少なくともイギリスではそのように扱われている)が、日本ではもっぱらドイツ名で知られ、ドイツの作曲家として扱われるのが通例である。(Wikipediaより)

1.生い立ち

 ヘンデルは1685年2月23日、ドイツ中部のハレで生まれました。この年はヨハン・セバスチャン・バッハが生まれた年でもあり、ハレという町は、バッハが生まれたアイゼナッハからは直線で130kmほど、後半生を送ったライプツィッヒの西35キロメートル位のところに位置します。

 バッハが音楽一家に生まれたのに対し、ヘンデルの家系は音楽とほとんど関係がなく、父親ゲオルクは宮廷つきの医師、祖父ヴァレンティンは銅細工師でした。このため、ヘンデルが音楽の道を志したときに父親は反対しましたが、ヘンデルはそれを押し切って音楽の道を選びます。

 ハレという町は、ヘンデルが生まれる少し前からブランデンブルグ辺境伯クリスティアン・ヴィルヘルム(1587~1665)の宮廷が置かれ、ドイツの初期バロックを代表する作曲家の一人ザムエル・シャイト(1587~1654)や、ミヒャエル・プレトリウス(1571または1572~1621)が活躍しました。その後、戦乱などの混乱期を経て、1638年には平和が訪れましたが、ヘンデルが生まれるころには宮廷がヴァイセンフェルスに移ったため、宮廷楽団もハレを離れました。

 その後は教会を中心とした音楽活動が行われ、ヘンデルはマリア教会のオルガニスト、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ツァハウ(1663~1712)に音楽教育をうけ、改革教会のオルガニストして活躍しました。

2.ハンブルグからイタリアへ

 1703年、17歳の時にハンブルグオペラのヴァイオリン奏者となり、後に通奏低音奏者になりました。作曲活動も進め、1705年に最初のオペラ〈アルミラ〉を作曲して成功を収めました。しかし、ハンブルグオペラそのものが堕落の兆候を見せ始めたために見切りをつけ、1706年に当時音楽の最先進地域であったイタリアに向かいます。

 ローマ、ヴェネツィア、ナポリなどを回って、スカルラッティ親子、コレルリ等のイタリア楽壇の大御所と知り合い、優れたオルガン奏者、チェンバロ奏者として歓迎されました。また、引き続いて〈ロドリゴ〉、〈アグリッピーナ〉等のイタリアオペラの作曲も行い、いずれもイタリア人から喝采を浴びました。

3.ハノーファーからロンドンへ

 1710年、ヘンデルは、イタリア音楽家アゴスティーノ・ステッファニ(1654~1728)の推薦によって、ハノーファーの宮廷楽長に就任しました。ハノーファーは16世紀以来音楽が盛んな町で、16世紀はルター派の教会音楽が中心になっていましたが、1636年にカーレンベルク公国の宮廷が置かれてから、宮廷に活動の中心が移っていきました。

 領主の改宗など色々な情勢の変化の度にフランス風の音楽が支配的になったり、イタリア風の音楽が支配的になったり流動的でしたが、1670年ごろからイタリア音楽が主流になりオペラ劇場も建てられる状況にありました。1688年から1695年まで宮廷楽長を勤めていたのが、前述のステッファニでした。

 ヘンデルはイタリア音楽の能力を買われて推薦されたと推定されますが、彼は就任後直ぐに休暇をとって、母親のいるハレの町を訪ねた後、デュッセルドルフ、オランダを回ってロンドンにやってきました。当時、ロンドンではすでにイタリアオペラの上演が盛んに行われており、ヘンデルも1711年にロンドンで最初のオペラ〈リナルド〉を上演し、予想以上の成功を収めました。

 この年の6月、一旦ハノーファーに戻りますが、その地ではほとんど足跡を残さないまま、1712年秋、再びロンドンに渡り、そのまま生涯を過ごします。一方、ハノーファーの方は、1713年に新しい宮廷楽長を任命することになりました。

4.オペラ作曲家時代

 1712年秋に戻ってから、オペラ作曲活動を再開し、〈忠実な羊飼い〉等を次々に作曲していきました。興行的には常に大成功というわけには行きませんでしたし、時には劇場経営者が資金を持ち逃げして上演不能の危機を味わったこともありましたが、平均的には成功といえる状態で、クィーンズ劇場を中心に、ロンドンのイタリア・オペラを盛り上げていきました。

 この時期はオペラ作曲とともに、貴族の館での音楽活動なども盛んに行い、それをみた宮廷が祝祭用の音楽の作曲を依頼することもありました。ちょうどこの時期スペイン継承戦争がようやく収まる見通しが出てきたため、そのための音楽や王女の誕生日のための祝祭音楽などが作曲されました。

 1714年に運命のいたずらのようなことが起こりました。アン王女が急死したため、ハノーファー選帝侯ゲオルグ・ルードヴィッヒがイギリス王ジョージ1世となったのです。つまり、折角宮廷楽長に任命されたのに、禄にお仕えもせずに放り出してきた元の雇い主が追いかけてきたようなことになったわけです。わが国でもヘンデルの作品として最も名高い曲の一つである「水上の音楽」が作曲されたのがちょうどこの時期ですので、気まずい思いをしたヘンデルが密かに作曲演奏して、ジョージ1世の許しを得たという説がかつて信じられていたのですが、今日では単なる面白いお話に過ぎないというのが定説になっています。なお、ジョージ1世はハノーファーにいることの方が多く、音楽にもあまり熱心ではなかったようです。

 王様が代わった後もヘンデルは従来と同じようにオペラや宮廷の祝祭音楽、また、イギリス独特の音楽劇ともいえる“マスク”の音楽などの作曲を続けます。記録に残っている話題としては、1719年にドレスデンへロンドンのための新しい歌手探しに行き、何人かお目当ての歌手を引き抜くことに成功し、反対に引き抜かれたドレスデンのオペラ界は大混乱に陥り、閉鎖する劇場もあらわれました。また、この時、かねてヘンデルのうわさを耳にしていたバッハが一度会いたいと思い立ってハレまで出かけていきますが、少しのところで行き違いになりついにこの二人が出会うことはありませんでした。

5.イギリス帰化

 既にイギリスで長く活躍していますが、それでもヘンデルは、ゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデルというドイツ人でした。それが何がきっかけになったのか明記した資料はありませんが、1724年にイギリスに帰化し、名前もジョージ・フリデリック・ハンデル(George Freideric Handel)と改名しました。わが国ではドイツ語読みで通用していますが、本人は「それ誰のこと」と言っているのかも分かりません。私自身、アメリカでラジオを聴いていて「ハンデル作曲の‥‥」というアナウンスを聞いて誰のことかと思っていたら流れてきた音楽がヘンデルの曲だったので、英語圏の人間はこう発音するのかと納得した覚えがあります。

6.オペラ作曲家としての後半

 イギリスに帰化した直後1727年2月13日に正式に王室礼拝堂付作曲家および宮廷作曲家に任命されますが、これはいわば名誉職のようなもので、以前と変わりなく次々とオペラを作曲していきます。しかし、1720年代に入るとジョバンニ・ボノンチーニ(1670~1747)というヘンデルに対抗する勢力も現れ、ロンドンのオペラ界全体がヘンデル派とボンチーニ派に分かれて何かにつけ対立するようになります。また、有力な歌手同士がいがみ合うというような事態も多発したといわれていますが、そのような時期に、ヘンデルが活動の中心としていた王立アカデミーの行き方を批判する、英語でしかもなじみ深い旋律を取り入れた《乞食オペラ》といわれる新しい動きも起こってきます。こういう状況の変化を受けて、1728年には王立音楽アカデミーの倒産という事態も発生します。

 王立音楽アカデミーは直ぐに活動を再開し、5年間の予定で引き続いてキングズ劇場でオペラ公演を続けることとし、ヘンデルも倒産前と同様、オペラ作曲家として活躍します。ところがこの5年間の後半になると、ヘンデルのやり方に批判が強まり、アカデミーで歌っていたメンバーの相当数が、皇太子の支援を受けて、別のオペラ公演組織を結成してしまいます。ヘンデルは、予定の5年間が1734年に終わっても暫くオペラでの活動を続けます。活動の場は1734年からはコヴェント・ガーデン劇場に代わりました。

 別組織は1737年まで活動しましたが、皇太子の熱が冷めたことなどからその年で解散し、ヘンデルが再び、キングズ劇場に戻り、1738年までオペラの作曲を続けます。

 また、この期間、王室からの注文で祝祭音楽を書くことも続いており、《ジョージ2世のための戴冠式アンセム》、《アン王女のための結婚アンセム》などが残されています。

7.オラトリオ作曲家への転向

 前述のようにオペラの作曲、公演活動は続けるのですが、横暴な歌手との軋轢、帰化したといっても出生が外国人であるヘンデルに対するイギリス人の反発、加えて1738年の再度の経済的破綻等の苦労が続き、次第にオペラに対する情熱は冷めたようです。

 オラトリオは舞台装置、衣装を伴わない音楽劇ともいえるものですが、ヘンデルはオペラに活躍している間にも時折オラトリオを作曲しており、記録に残っているものでは1708年に最初に作曲しています。

 1736年から数年間はオペラとオラトリオの並存期で、今でも比較的知られているものとして、1736年にオラトリオ《アレキサンダーの饗宴》1738年にオペラ《セルセ》(冒頭のアリア「オンブラ・マイ・フ」が有名)などがありますが、オペラは1741年の作品が最後でその後はオラトリオだけになって行きます。結局、終生で作曲したオペラの数は36曲といわれています。

 オラトリオは旧約聖書を題材にしたものが殆どで、演奏は教会での礼拝を意識したものではなく、劇場での公開演奏会での演奏を前提にしたものです。

 現在残っている記録では、1740年ごろから、毎年1~2曲のオラトリオが作曲され、1741年に現在われわれが取り組んでいる《メサイア》が完成しました。ただ、《メサイア》だけはその題材のためか、有料の公開演奏会で演奏されずに、慈善演奏会で演奏される機会が殆どでした。《メサイア》以外のオラトリオが日本で演奏する機会は殆どありませんが、その中で唯一、曲中の合唱曲1曲が盛んに演奏されている曲があります。「勇士は帰りぬ」という名前で、表彰式での定番となっている曲がそれで、もともとは《ユダス・マカベウス》という1747年に作曲されたオラトリオの1曲です。

 オラトリオ作曲家となってからも、宮廷の祝祭音楽の作曲は続きます。声楽曲も幾つかありますがなんといっても有名なのは《王宮の花火の音楽》でしょう。これはオーストリア継承戦争が1748年にようやく終結し、その祝典が1749年に開かれたときのために作曲されたものです。

 1751年になって視力が急に減退し、1752年には視力を失いました。バッハと同じ眼科医の手術を受けますがバッハと同様その効果はありませんでした。手術を受けた時期は今手元にある資料でははっきりしませんが、手術が裏目に出て視力を完全に失ったのか、視力を失ってから回復を目論んでやはりだめだったのかは不明です。

 視力を失ってからは旧作の再演や、即興演奏で音楽活動を続けていましたが、1759年4月14日(復活祭の翌日)に死亡し、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。

※本文は「アンサンブル・ヴォーチェ」さまのHPより抜粋・引用させて頂きました

http://www.prmvr.otsu.shiga.jp/ensemblevoce/index.html